由緒

軻遇土神かぐつちのかみ・・・・・火の神

配神

御神徳

現在の社殿は慶長8年、藩祖政宗公千代城に入城と同時に後造営になり御遷座申し上げております。

当神社は古く羽州米澤に御鎮座になられ、天正19年(1591)藩祖伊達氏十七世政宗公が、米澤より陸奥國玉造郡岩出山に移るに際して、社も岩出山に御鎮座、慶長5年(1600)千代城を青葉山に築城、名を仙臺(台)と改められ、慶長8年(1603)政宗公入府に合わせ社も一時国分荒牧村(現元寺小路)に仮遷座を行い、同年仙台城や城下を一望できるこの愛宕山(以前天狗山とも称す)に御社殿を御造営になられ、御遷座申し上げ、誓願寺を別当寺とし、合わせて5貫720文を寄進されております。

以後藩内の安全を祈願するなど、特に火防の祭は城下挙げての盛大な祭が行われたと言われます。この様に歴史を見てまいりますと、政宗公が知行地を移す毎に当社をお祀りしていたことがわかります。



 

政宗公の意志を継いだ歴代の藩主特に2代藩主忠宗公慶安3年(1650)4代藩主網村公元禄7年(1694)に改修、修復工事を行っております。その後は歴代藩主の小規模ながら修理等が繰返され、ことに5代藩主吉村公は祭田30石を献納するなど、この時代には仙台の代表的な神社となっております。皇室の御安泰、国歌鎮護、藩内の安全を祈る歴代藩主の尊崇ことのほか篤いものがありました。

ことに股肱白石城主片倉小十郎景網の長子重網は家臣の兜の前立にまで「愛宕代権現」の護符を差し挟み、大阪の役の戦陣に立ち勇猛であったと伝えられております。天明元年(1781)菊池岡左衛門廣隆は石華表(鳥居)壱基を、若生儀兵衛は石段を奉納、大正12年吉田つぎ子刀自は嗣子と共に石段の補修と拝殿までの敷石200余間(凡364米)を奉納するなど藩政時代から現代に至るまで、藩主・家臣・庶民の信仰すこぶる厚いものがあります。当神社例祭には仙台市内全域の神興渡御が市民こぞって盛大に行われ、とりわけ終戦直後、戦火により廃墟となった市中の復興と、市民の心の奮起を願い、戦前にも勝る神興の渡御が3カ年連続して斎行され、杜の都仙台市の復興と発展(現青葉まつり)の基となったことは特筆されるものであります。末社稲荷神社を奉斎します。

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